米国による日本人大虐殺 東京大空襲

3月10日
赤い東の空。幾十万の人々が家を失ひ、傷づき倒れながら右往左往してゐるのだらう。「東京最後の日」となるのだらうか(野田宇太郎

 「陸軍記念日」の昭和20(1945)年のきょう午前0時すぎ、米軍の爆撃機B29約300機が浅草や深川など東京の下町を襲った。詩人、野田宇太郎は吉祥寺に住み、このときは被災を免れたが、戦禍は彼の想像を超えていた。

 「まず下町一帯の密集地帯の周辺に焼夷(しょうい)弾を落として火災をおこさせ、住民の逃げ道のないようにしておいたうえで、つぎに外から中へたたいていったのである。包囲爆撃、ジュウタン爆撃、みな殺しであった」(新名丈夫(しんみょう・たけお)著『太平洋戦争』)。

被災者は100万を超え、行方不明者を含めた犠牲者は10万人以上にのぼった。民間人を巻き込むことを想定した無差別爆撃。「軍需工場近くに民家が密集し、軍需用の小規模家内工業が住宅地に混在していた」(文芸春秋社『世界戦争犯罪事典』)などと米軍は説明した。しかし、明白な国際法違反だった。

 「お化けのようなヤケドの人をみても死人をみても、すでに鈍感な神経になったごとく、周囲の人びとの作業は昼となく夜となく奉仕の心で続いておりました」。大著『東京大空襲・戦災誌』にある無名の女性被災者の証言である。
その尊い姿を思うとき、ただ、頭を垂れることしかできない。くやしい。


 3月10日は、東京の下町一帯が米軍のB29の無差別爆撃を受け、10万人が死亡した東京大空襲から64年目の命日にあたる。広島、長崎の原爆の日(8月6日と9日)とともに、多くの非戦闘員が犠牲になった日として、忘れてはならない日だ。

改めて犠牲者の冥福を祈りたい。

 日本が頻繁に空襲を受けるようになったのは昭和19年夏、サイパンテニアンなどを失い、本土がB29の行動圏内に入ってからである。当初は軍事施設を狙った精密爆撃が中心だったが、昭和20年1月、米極東空軍司令官に着任したカーチス・ルメイ少将は、木造の住宅密集地を標的にした無差別爆撃に切り替えた。

 それは、まず爆撃目標地域の周囲に焼夷(しょうい)弾を投下し、逃げ道をふさいだうえで絨毯(じゅうたん)爆撃を加える方法だった。無差別爆撃は東京大空襲の後も、名古屋や大阪などの大都市や地方都市に加えられ、犠牲者総数は50万人を超えた。

 1922年、ハーグで日米英などの法律家委員会が作成した「空戦に関する規則(24条)」は未発効ではあったが、軍隊や軍事施設以外の目標への爆撃を禁止していた。当時の米政府は「戦争終結を早めるため」と正当化したが、日本の敗色が濃厚な時期に、非人道的な無差別爆撃が本当に必要だったのか、極めて疑問である。

 昨年、BC級戦犯裁判でB29の搭乗員を処刑した罪に問われた岡田資中将の法廷闘争を描いた映画「明日への遺言」が上映され、大きな反響を呼んだ。
この映画は無差別爆撃の非人道性を問いかけた作品で、この問題に関する国民の関心の高さを物語っている。

 近年、ヨーロッパでも、第二次大戦中の戦勝国の非人道的な行為を検証しようという試みが始まっている。

 東京大空襲の1カ月前の1945年2月、ドイツの古都、ドレスデンが米英空軍の無差別爆撃を受け、数万人の一般市民が死亡したといわれる。戦後、ドレスデンは東独に属し、ホロコーストへの負い目もあって、連合国への批判が控えられてきたが、60周年にあたる2005年2月の式典では、5万人の市民がロウソクをともし、犠牲者を追悼した。

 戦争はいつの時代も、勝者の側から見た歴史だけが語られがちである。だが、敗者の側から“勝者の戦争犯罪”を検証することも大切である。(産経新聞より)


メリケンよ、俺達は覚えているぜ。