「人の砂漠-鼠たちの祭」読みました

面白かったけど新事実はありませんでした。
この本が出たのは昭和52年の11月ですから、いわば板崎喜内人さんの全盛期。
「人の砂漠-鼠たちの祭」の書評を書いた人が板崎喜内人さんのその後をよく知らなかっただけだったようです。

沢木耕太郎さんは相場の実践者ではないので首肯し難いところもありました。
しかし、当時の商品相場業界をにぎわせた一流の相場師たちに好意をもって精力的取材をした筆者の努力と情熱には頭が下がります。

随所に痺れるセリフが鏤められた価値ある一冊でありました。
「30億、50億というのは枝葉のことです。自分が使い切れん金をいくら持っとっても同じです。紙切れもいっしょです。」(板崎喜内人)

「相場なんちゅうものは教えてわかるもんとちゃう」(伊藤忠雄)

「不思議なんですけど、人は損には耐えられるんですわ。
相場が下がると、もう少し下がれば上がる、もう少し、とよう握って離さん。
ところが10円上がるとすぐ利喰っちゃう。利のほうが我慢できん。
玄人と素人との差なんて大してない。10回相場張って1、2回あたればよろし。それはどっちも同じような確立なんです。
違うとすれば、その一度の当りでどこまで利が乗ったときに耐えられるかということですな。百円で利喰うか、千円まで待てるか。それが人間の器量なんですわ。
どこで、「見切る」か、だけです。」(板崎喜内人)

<参考>
板崎喜内人(=桑名筋) (いたざききなんど)

三重県の神宮の息子として昭和10年に生まれる。
大阪で岡三証券入社をきっかけに相場の道に入る。
その後、商品市場へ興味を持ち、昭和47―48年にかけて毛糸、小豆相場で100億円の投機利潤を得たことで、別名桑名筋として一躍有名になった。

小豆相場においては、静岡筋の売りと真っ向から対立し、これを打破。
それらの資金を元手に、東京で川村商事、大阪で京丹穀物を買収し、本格的に商品業界に進出した。
しかし昭和57年の小豆の仕手戦で追証納入不能の違約を発生させ、2社とも倒産させている。

その後、本田忠氏との関係を深め、昭和55年以降、仕手筋として再浮上するが、大倉商事と連携した平成2年の神戸生糸取引において大敗し、その後マスコミに登場することはなくなった。(株式会社ハーベストフューチャーズ 商品先物取引用語集より)